マドリードの教会の有名な墓

  • Convento de las Trinitarias. Foto de Álvaro López del Cerro.
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Bloggin Madrid

2020年10月29日

パンテオン・デ・オンブレス・イルストレス(Panteón de Hombres Ilustres:著名人の霊園)マドリードの墓地に加え、スペイン史の重要人物の何人かは、19世紀まで多くの富裕市民の一般的な埋葬場所であった、首都の教会に葬られています。以下に紹介するルートの墓や墓碑には、計り知れない価値がある芸術作品もあれば、石に刻まれた時の流れの証となっているものもあります。1年中いつでも墓を訪れることはできますが、事前に各教会の開館時間を問い合わせておくことをお勧めします。文:イグナシオ・ブレミング(Ignacio Vleming)

マドリードの守護聖人であるサン・イシドロ・ラブラドールの腐敗していない遺体は、夫人のサンタ・マリア・デ・ラ・カベサとともに、聖人の名を冠した参事会教会に眠っています。伝説によると、ナバス・デ・トロサの戦いの後、アルフォンソ8世はマドリードに立ち寄って支援に感謝したいと考え、聖人の亡骸を訪れたということです。遺体を見て国王は大きな衝撃を受けました。180センチという聖人の身長だけでなく、その顔が、戦闘中にモレナ山脈の険しい岩山と囲い地の間を案内してくれた、羊飼いの顔に瓜二つであると確信したからです。国王は聖人に感謝するため、棺の制作を命じました。この棺は13世紀末に、現在アルムデナ大聖堂(Catedral de la Almudena)に保存されている、聖人の奇跡の場面が革に描かれている棺と取り替えられました。

サン・イシドロの棺は、16世紀までのマドリードで最も貴重な芸術作品であったと言っても過言ではありません。マドリードは、エンリケ4世の頻繁なモンテ・デル・パルド(Monte del Pardo)滞在と、その後カトリック両王によって何度も行われたマドリード訪問により、頭角を現し始めます。それまでは、トレドセゴビア、ブルゴス、バリャドリードの方が、はるかに重要な街だったのです

かつてのイスラムのマジェリト(Magerit)が、後に永続的な王都になるこの台頭と、密接な関係があったのがバルガス家です。フェルナンド・バルガスは、「命ずる」と言う代わりに「バルガス、その方調べよ」という婉曲表現を生み出したカトリック王の秘書官でした。息子のグティエレ・デ・バルガス・イ・カルバハルは、当時大きな影響力を持っていた神学者の一人で、プラセンシアの司教であり、サン・アンドレス教会(Iglesia de San Andrés)の礼拝堂の名前の由来になっています。1547年にフランシスコ・ヒラルテに制作を依頼した礼拝堂には、彼と両親が埋葬されています。スペイン・ルネサンスの傑作の一つであるこの素晴らしい彫刻群を見学するには、ラ・パハ広場(Plaza de la Paja)から小さな回廊を通って入ります。雪花石膏で巧みに表現された布地と、音楽を奏でる天使たちの生き生きとした姿は、驚くべきものです。かつてアロンソ・ベルゲテの工房で働いていた彫刻家のヒラルテは、多色彩飾の木材で見事な飾り衝立も制作しました。

同時代の作品である一組の夫婦の墓は、カスティリオーネが武勲と文学への使命感とした、ルネサンスの2つの素晴らしい美徳が一つになったものです。「エル・アルティジェロ(砲兵)」と呼ばれたフランシスコ・ラミレスは、グラナダの戦いでの勝利で知られ、妻のベアトリス・ガリンドは、カトリック女王イサベルとその息子たちの家庭教師でした。文法とラテン語を教えていたため、「ラ・ラティナ」と呼ばれ、彼女が病院を創設した地区が、その名で知られるようになりました。

同施設にあった雪花石膏の墓碑は、現在サン・イシドロ博物館(Museo de San Isidro)で展示されていますが、遺体が納められたことはありません(彼女の亡骸はボアディージャのコンセプシオニスタ・ヘロニマスにあり、夫の遺体の場所はわかっていません)。

黄金時代には、プエルタ・デル・ソルより先の畑しかなかった場所が、演劇の舞台になりました。クルス劇場、パチェカ劇場、プリンシペ劇場(現在のスペイン劇場(Teatro Español)の所在地)があった他、レオン(León)通りとプラド(Prado)通りの角は、メンティデロ・デ・レプレセンタンテス(俳優などの雑談の場)であり、当時のショービジネスの契約が結ばれていました。

「ラス・ムサス(Las Musas)」または「ラス・レトラス(Las letras)」と呼ばれ始めた新しい地区には、ケベド、ゴンゴラ、ロペ、セルバンテスが住んでいました。『ドン・キホーテ』の作者は、本人の希望に従い、1616年に近くの三位一体会修道院(Convento de las Trinitarias)に埋葬されました。彼をアルジェでの虜囚生活から解放してくれたのが、同会の修道女たちであったためです。また、この修道院では、セルバンテスの私生児であるイサベル・サアベドラ尼が、修道生活を送りました。彼女はそこで、同じく著名人の娘であるマルセラ・サン・フェリクス尼に出会うことになります。ロペ・デ・ベガと女優のミカエラ・デ・ルハンの間に生まれた娘で、彼女自身も父同様に有名な作家でした。現在この2人の修道女は教会の地下礼拝堂で眠っています。

一方、「不世出の天才」ロペ・デ・ベガは、サン・セバスティアン教区教会(Parroquia de San Sebastián)に埋葬されました。この教会には、ラ・ノベンタの聖母の俳優信徒会に属する礼拝堂がありました。数年後に彼の遺体は共同墓地に移され、現在その所在地ははっきりわかっていません。現在花屋になっている教会入口前の墓地の遺体がどうなったかも、定かではありません。

ある夜この墓地から、ホセ・カダルソが、「ラ・ディビーナ」として知られた最愛の女優マリア・イグナシア・イバニェスの遺体を、掘り起こそうとしたと伝えられています。後に彼は、スペイン前ロマン主義の代表的な作品の一つである『陰鬱な夜(Noches lúgubres)』で、その時のことを思い起こしています。しかし、現在では、作品に人気が出るよう、作者自身がこの屍姦行為を公表したと考えられています。美しいベレンの聖母の礼拝堂を見ずに、サン・セバスティアン教会を後にはできません。スペイン内戦時に、略奪の被害に遭った後、部分的に破壊された教会で、最も保存状態の良い場所です。ここには、18世紀のスペイン建築の2大巨匠である、フアン・デ・ビジャヌエバと、教会を現在の姿にしたベントゥラ・ロドリゲスが眠っています。そのため、この墓所は「建築家の礼拝堂」としても知られています。

傑出した存在であった宮廷画家たちの運命は、全く異なるものでした。フェリペ4世の王室宿営担当者であったベラスケスは、サン・フアン・バウティスタ教会(Iglesia de San Juan Bautista)に埋葬されました。今日では、教会の土台がラマレス広場(Plaza de Ramales)に残っているだけです。ジョゼフ・ボナパルトの時代に、古いハプスブルク家のマドリードの風通しを良くするために取り壊され、同時代に墓地も市外に移されました。ここに『ラス・メニーナス(女官たち)』の作者の遺体があったことを、十字架が思い出させてくれます。

カルロス3世、カルロス4世、フェルナンド7世の肖像画家であったゴヤはボルドーで亡くなり、同地で友人のマルティン・ミゲル・ゴイコチェアの隣に埋葬されました。1919年、スペイン領事ホアキン・ペレイラの発案で、ゴヤの遺体はスペインに運ばれました。驚くことに頭部は見つかりませんでしたが、骨相学の研究者によって盗まれたと考えられています。現在ゴヤの胴体と腕は、彼自身がリスボン出身の聖人の奇跡の一つを描いたフレスコ画で装飾した、サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂(Ermita de San Antonio de la Florida)に埋葬されています。一方、音楽家のトマス・ルイス・デ・ビクトリアデスカルサス・レアレス修道院(Monasterio de las Descalzas Reales)に埋葬されました。彼は24年以上この修道院のオルガン奏者を務め、その大半の期間、皇后のマリア・デ・アブスブルゴに仕えていました。

しかし、君主の埋葬地が不明になったり、遺体の一部が失われたりすることは、ほとんどありません。ハプスブルク家とブルボン家の国王は、エル・エスコリアル修道院(Monasterio de El Escorial)の地下納骨堂に、他の国王の母となった王妃たちとともに眠っており、隣には王子たちの霊廟(Panteón de los Infantes)があります。

しかし、例外が2件あります。フェリペ5世は、憂鬱な気分を和らげるために長期間過ごしたラ・グランハ宮殿(Palacio Real de La Granja)への埋葬を希望し、フェルナンド6は、王妃に先立たれた後に引きこもっていたサレアス・レアレス修道院(Convento de las Salesas Reales)で、王妃のバルバラ・デ・ブラガンサとともに眠っています。フランシスコ・モラディージョとフランソワ・カーリエが手がけたこの18世紀の壮観な建物は、現在最高裁判所になっており、その教会は素晴らしい階段がウエディングドレスを一層美しく見せるため、マドリードの多くの人々が結婚式を行うために好む教区教会の一つになっています。

内部では、スペイン王室屈指のロマンチックなカップルとして歴史に名を残す、国王夫妻の霊廟が際立っています。カルロス3世の依頼を受け、フランシスコ・サバティニのデザインから、フランシスコ・グティエレスとフアン・レオンが彫刻を手がけました。王妃のモニュメントの上部を飾る2つの地球儀は、スペイン王国の世界的な規模を示しています。

サレサス教会には、イサベル2世の治世下に幾度も大臣職を務めたレオポルド・オドネルの墓碑もあります。レコレトス通り(Paseo de Recoletos)の終わりにあるコロンブスのモニュメントも手がけた彫刻家ヘロニモ・スニョルの作品で、ルネサンス期屈指の美しい墓を連想させます。先に司教の礼拝堂(Capilla del Obispo)について触れましたが、今回のモデルはアルカラ・デ・エナレス(Alcalá de Henares)大学の礼拝堂で探さなければなりません。礼拝堂にはドメニコ・ファンチェリがシスネロス枢機卿のために制作した、見事な墓があります。

19世紀になると教会への埋葬はあまり行われなくなりましたが、サラマンカ(Salamanca)地区中心部にある新ゴシック様式のコンセプシオン聖堂(Basílica de la Concepción)は、地下礼拝堂とともに建設されました。礼拝堂には、マドリードとパソ・デ・ミラスに住んだ作家のエミリア・パルド・バサンや、週刊誌『ブランコ・イ・ネグロ』を創刊し、人気小説『ロス・レングロネス・トルシドス・デ・ディオス(Los renglones torcidos de dios』の作者でもあるジャーナリストのトルクアト・ルカ・デ・テナなど、ブルジョア階級や貴族の著名人が眠っています。

また、アルムデナ大聖堂(Catedral de la Almudena)は当初から地下礼拝堂とともに設計され、礼拝堂は現在では建物で最も古い部分になっています。礼拝堂へは、マヨール(Mayor)通りを進み、バイレン(Bailén)通りとの交差点を過ぎた所から入ります。ネオロマネスク様式で、礼拝堂の一つにクバス侯爵が眠っています。彼は、マリア・デ・ラス・メルセデス王妃の固執により最終的に建設に至った建物の、最初の建築家でした。フェルナンド6世とバルバラ・デ・ブラガンサの愛について記した時、言及は避けましたが、同様のことが起こったのは、それから100年以上後のことでした。一目で恋に落ちたアルフォンソ12世と若きマリア・デ・ラス・メルセデスでしたが、彼女は跡継ぎを産まなかったため、エル・エスコリアルではなくアルムデナの聖母の庇護の下で永眠しています。大聖堂の博物館には、王妃のための霊廟の下絵が保存されていますが、建設には至りませんでした。

このように、マドリードの教会ルートに登場した大勢の男女は、非凡な才能、執念、名声、権力で際立つ人々でした。比類なき作家、建築家、芸術家、聖人、国王たちです。1875年に、柱廊のある科学の殿堂、国立人類学博物館(Museo Nacional de Antropología)を創設したゴンサレス・ベラスコ医師の物語も同様に独特なものです。プロジェクトへの非常に強い思い入れから、彼は博物館に埋葬されることを望みました。1943年、学芸員たちは博物館に墓があるという考えを、好ましく思わなかったのでしょう。彼の遺体はサン・イシドロ墓地(Cementerio de San Isidro)へ移され、夫人と、チフス治療のために彼が与えた下剤が原因で亡くなった娘とともに眠っています。

マドリードの文学サークルで何度も話題になり、ラモン・J・センデルが綴った伝説によると、彼は娘がまるで生きているかのように、治療を続けるため、娘に防腐処置を施したということです。父と亡くなった娘を乗せた、カーテンを閉じた馬車が通るのが、時折見受けられたと言われています。

このルートを巡った後、再びマドリードの墓地著名人の霊園(Panteón de Hombres Ilustres)へ足を運んではいかがでしょう。そこに集められているのは、墓に施された貴重な彫刻作品だけでなく、石に刻まれたスペインの歴史の証拠でもあるのです。

 

  • マドリードは街全体に公園が多数存在します。ひと息つくのに最高の場所です。

    公園と庭園
  • Rosaleda de El Retiro © Álvaro López del Cerro
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    マドリード・リオ(Madrid Río)
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    マドリードのルート
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  • Faro de Moncloa. Verano 2023. Foto: Alváro López del Cerro © Madrid Destino
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  • Monumento Alfonso XII. 1922. José Grases Riera. Foto de Álvaro López del Cerro.
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